榎ありさの独り言だけど聞いてPart3

シンガーソングライター、司会、ヨガインストラクターの榎ありさのなんか色々♪

阪神淡路大震災から

25年、経ったんやね。

25年の間、地震よりびっくりしたことも、悲しいことも、つらいことも、涙を流したことも、自分の力ではどうにもならないことも、たくさんあったけど、

やっぱり忘れられない。

 

まさか自分の家の中で吹っ飛ばされて洗濯機の中みたいにグルグル回るとは思わなかった。

(たまたま洗い物してて(そんな時間に!)台所に立っていた)

 

戦争を知らない私が、焼け野原の瓦礫の街を歩くとは思わなかった。 

とゆうか、当初は地震だとは思わず戦争が始まったんだと思った。

焼け跡の街を歩くと靴底が溶ける、って知った。

ご遺体が並んでる風景を見ても心が動かなくなった。

ご飯の味がしなくなった。

でも、お腹はすく…泣きながらソーセージ食べた。

 

晴れてるのに火事の黒煙で空が暗かった。

夜は夕焼けみたいに明るかった。停電してるのに。

空から灰がたくさん降ってきた。

道路の脇に寝かされているご遺体を、野犬?野良犬?が食べているのを見た。衝撃だったのにその時の感情が思い出せない。

忘れたいことは忘れよう。

 

書けないこともある。それはまだ、心の中にしまっておこう。

いつか忘れられたら忘れよう。

 

消防車は来てるのに水が出ないなんてことがあるって知った。

火事場泥棒ってホンマにおるんやな、と知った。

報道のヘリコプターの音がうるさかった。

振動が怖かった。

残ってたお家が崩れた。

 

お父さんが埃や土まみれで帰ってくるのにお風呂に入れないのがとても心配だった。

アスベストとゆう言葉を知った。

弟はたまたま学校のスキー旅行で居なくて、本当に良かった、と思った。

でも、連絡が取れるまで怖くて怖くて仕方なかった。

普通なら電車で20分の大阪に行くのに、まさか船を使って何時間もかけて行くとは思わなかった。普通ってなに?

その大阪が、灰色だらけの神戸と違って電気も笑顔もたくさんあって日常が続いていて目眩がした。日常ってなに?

 

その大阪で復興宝くじ?みたいのが売ってて(売れ上げが支援金になるとかゆうやつだったと思う。)300円だけ買ったら3000円当たって(後にも先にも宝くじ当たったのこれだけ)

その3000円を大阪駅にあった支援金箱に入れて、「何してんだ私」と思ったこと。
疎開中だった当時の私に3000円は大金。船に乗って神戸に帰れる。

 

震災発生後早い段階で安否確認の連絡くれたお友達がいて

嬉しくて思わず好きになりそうになったこと。若い・・(笑)

 

火事の酷い地域に住んでいる大親友の安否が分からなくて

何日?何週間?か経ってようやく声が聞けたとき、受話器を握りしめて号泣した。

スマホの無かった時代のお話。

 

飲み水がなくて喉が渇きすぎると、空腹でもご飯が喉を通らないと知った。

トイレが使えないことが怖いことだとは思わなかった。

犯罪者は災害時でもいる。災害時だからいるの?分からない。許せない。

 

瓦礫の中で代替バスを待つことが普通になった。

友達が焼けて骨だけになって見つかった。

「荼毘に伏す手間はぶけたね」「どんな美人でも死んだら同じやね」と、今なら炎上しそうな軽口をみんなでたたいた。なんでも冗談にしないと、みんな心がもたなかった。

確かに…たくさんのご遺体を見て

人は死んだらみんな同じだと思った。同じじゃないのに。

でも、物は何も持って逝けない。

 

どの建物を見ても倒れかけてるように見えた。

断水が解消されて出てきた水がキラキラと宝石のようだった。今でもそう思う。

 

今でも火が怖い。

今でもサイレンの音がとても怖い。

 

地鳴りの音、バリバリと地面が割れる音が忘れられない。

地下鉄の音、飛行機が空を飛ぶ音、大太鼓、ドラムの低音

苦手です。怖いです。

でも、苦手と認識してるから今は大丈夫。

怖い時は我慢しないで泣く。

 

破裂した水道管から水を汲んで飲むとは思わなかった。

水って重いんだと知った。

神戸の坂道をママチャリで水のタンク数個と赤ちゃんを抱えて往復している女性をみて、母親はすごいと知った。

 

支援物資を高額で売る大人を見て感情がなくなった。

そうゆう私も、ズルをして通りがかっただけの避難所で豚汁もらった。多分、住民優先だったと思う・・・。

やる気なくてテストの勉強せずにテストうけて、震災のせいにした。

 

商店街で豚まんを売るお手伝いをして、商人は強いと思った。

キャンプ用品は災害時こそ使える、と知った。

自分はお風呂には入らなくても意外と大丈夫だと知った。

でも、疎開したお婆ちゃんちで数週間ぶりにお風呂に入ったら3時間くらい入ってて叔母ちゃんにあきれられた。そして風邪をひいた。

家族と離れてお婆ちゃんちに疎開したことが、あんなに寂しくて不安になるとは思わなかった。水も電気も使えたのに。

 

会社が無くなって、両親が経済的にも心理的にもとても大変だったこと

とてもとても苦労して私達の学費を捻出し、

生活もなんとか維持してくれていた、と

何年も何年もしてから知った。

 

もしあの地震が無かったら、オトンはもっと生きていた気がする。いうても仕方ないことやけど。

 

良い人も悪い人もいると知った。

人はとても強いと知った。

人はとても弱いと知った。

 

あの地震発生時間があと少し遅かったら

多分私は生きていない。

 

でも、今、私は生きている。

 

「亡くなった人の分も頑張る」

と思っていた時期もあったけど、

もし私が先に死んだら…

生き残った人達に

「忘れないでほしい。

でも縛られないで自分の人生を生きてほしい」

と思う。

 

だから、

今は「亡くなった人の分まで何がなんでも」とは思わないけど、

あれもしたい、これもしたいと夢見ながら絶たれた命を思うと、一瞬たりともおろそかにはしたくない。

それは自分のために。

 

死に方は選べないから。

最期の瞬間に、ニコって笑って死にたいから。

 

先に亡くなった命は、今を生きてる人にいろんなことを教えてくれる。

それをちゃんと受け取って、

自分の人生を生きる。

生きるから見ててね。

 

 

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